転勤族だった私は、何処に立っても山と川の望める風光明媚な町(金沢)での暮らしの中で、新聞の投稿が始まりました。徒然は私の宝物です。花の画像は庭の花です。
by violasan
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2005年 02月 05日 ( 15 )

テスト

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携帯より
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by violasan | 2005-02-05 21:18

市民に優しい地域づくりを


ストアから戻り買い物袋を開けてみると、卵が一個や二個ひび割れていることは日常茶飯事である。
先日、金沢市が環境都市宣言をした。昭和二十九年の緑の都市宣言、平成四年の景観都市宣言に続いて「三本の柱」であるという。                                 

街を行くと、犀川べりから医王山を望む自然の豊かさや、美観の保たれた建物をいたるところに触れる。それらの景観は、金沢に暮らして四年めにしかならない「にわか金沢人」からでも褒め讃えたい。

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それに比べ、日常の生活の苛立ちが目にあまる。よく寺町大通りを自転車で利用する私である。狭い道を行くと電柱や雑然と置かれた計器や荷物にぶつかる。年中掘り起こされている道路工事のため、人や自転車が安心して通れる道はない。おまけに、北陸特有のふいの雨に買い求めた卵のこと忘れて、でこぼこ道の振動を体に受けながら自転車を走らせている。車社会から埋もれた一市民からのこぼれる不平や不満にも耳を傾けて金沢市民に優しい地域作りを目指して欲しいと思う。
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by violasan | 2005-02-05 20:18

私の習い事

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 習い事と言えば幼児期に始まる。
マリンバ、習字、絵画、ピアノなどなど。娘になると花嫁修業である。猫も杓子の例にもれず茶道と華道に通い、随分月謝を注ぎ込んだ。
 四十代半ば、ようやく何一つ特技や収入源にならぬ習い事をしてきたものだ。
 結婚後は、転居が続き、友達作りのため、パッチワーク、編物、押し花、アートフラワー、エレクトーンなどにも首を突っ込み自問自答している。どれも、道具を揃えた頃、夫の転勤により中断。ダンボールの数ばかり増え押入れを占領している。
 それでも、数々の習い事をして得たものがある。それは、『経験』。転居の都度に、武器となり積極性をもたらしてくれた。経験は旺盛な知識の源となっている。それぞれの経験の中に、笑って泣いて怒ったドラマがある。一年前よりそのドラマを書き綴ることをはじめた。 
 それは、今、唯一の習い事である。


平成9年11月2日
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by violasan | 2005-02-05 20:13

70歳すぎて調理師免許

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 70歳になる母は、昨年、調理師免許を独学で得た。愛知県で最高年齢の受験者であり合格者であった。
 母は、父を看取った後、ボケ防止にと大好きな和服の世界に飛び込んだ。初めての職場に戸惑いを感じて、退職後、寿司屋のまかないさんに転職した。幸い、店長の人柄の良さに恵まれ4年の年月が流れた。そして、若い店員との出会いが、調理師の免許を得るきっかけとなった。
 若い店員は専門学校で学んだ後受験したが、母は、その店員に学習書を借り独学で試験に臨んだ。学習書を読みこなすことは、老眼鏡の手放せない母にとって至難の業であった。当日、緊張は隠せずハプニングもあり結果はあきらめていたという。
 母は、70歳の年齢で一冊の学習書を読みこなして受験した経験に老後の生きがいを見つけたという。
 まだまだ、母の年齢までには年月のある私も、母のように何歳になっても学ぶ意欲を失うことのない素晴らしい老人となりたいと思う。

平成9年9月14日北国新聞掲載
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by violasan | 2005-02-05 20:06

二人の偉大な女性の死

 
 ダイアナ元妃の葬儀のテレビ映像に釘付けになっていた。
その映像は、英国王室の時代絵巻のようであった。
 生前のダイアナ妃は、今日の女性らしく活動的であった。皮肉にも、この活動的な姿は、マスコミにスキャンダルとして過度に追い掛けられた。結局、お二人のおおじ王子を残し王室を去ることになった。彼女の心痛は計りえない。c0051044_2001476.jpg
 ダイアナ元妃亡き後、スキャンダルの中に埋もれていた数々の慈善活動が浮き彫りにされた。エイズ対策や対人地雷の被爆者に愛の手を差し出してきた彼女である。彼女の生き方や活動を讃えるがごとく葬儀は、華麗かつ荘厳であり、人としての優しさがにじみ出ていた。
 同じ日、マザーテレサの死亡も伝えられた。テレサは上の愛の宣教師として、救いを求める人々に無仏の愛を注いで救援活動を続けてきた。
 生活環境こそ異なるお二人の女性は、世界中の人々に『生きる力』を提唱し続けてきたことは言うまでもない。

平成9年9月13日掲載
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by violasan | 2005-02-05 20:00

城のロマンをいかして

 
 先日、私なりにロマンを抱いて仙台市の青葉城を訪れた。
 緑のうっそうとした丘を登りつめると入り口があり、道なりに車を進めていくと係員に駐車券を渡された。てっきり整備された駐車場を予想していてのであるが。車はいたるところに放置されていた。

c0051044_18514610.jpg 「あ~あ、ロマンは泡と消えてしまった」
 暑さも加わり会場の様子も分からず苛立ちは深まる。雑然と駐車された車や多い観光客に、伊達政宗公の城だという豪壮なイメージは薄れ去った。
 
そんな折、城跡の使い方について話し合いが持たれている金沢城跡の姿を重ねてみた。城跡から伝統と風格の消える事のないよう願うばかりだ。城は町の顔である。大ホールの建設との要望も多いが、それならば、素晴らしい演奏の余韻を残したまま家路につけるようなエントランスホールや広大な駐車場を整備して欲しい。市民が四季折々の花を楽しめる空間があれば最高である。前田家の築き上げた絢爛豪華な文化を後世に伝えるために切望する。
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by violasan | 2005-02-05 18:53 | 徒然

懐かしいドジョウの味

子供の頃、夏休みになると、よく母の郷里へ出かけた。祖母は、いつも、ドジョウの蒲焼を買って来て「ドジョウは、夏ばて防止の良薬だよ」と言って、食卓に並べてくれた。はっきりいって子供だった私には、ドジョウの味覚は合わず、白いご飯ばかり食べていた。
 
三十年以上前のことなので、今日ほど肉料理は食卓に並べられることはなかった。だから、
夏ばて防止にと、うなぎやドジョウの蒲焼がもてはやされたのであろう。
 
飽食時代の今は、近くのストアーでも年中、店先に蒲焼が所狭しと並んでいる。

平成9年7月2日

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by violasan | 2005-02-05 18:30

小さな命

結婚して一年目の春のこと。
 母校の同窓会の知らせが入った。まだ、若く元気だった私は、ワクワクして手土産を山ほど買い込んで電車に乗り込んだ。
 ワクワクしていた理由は、久しぶりの帰省だったこともあるが、お腹の中に小さな命が芽生えていたからだ。
 
実家のある町の駅のホームに降り立った。両手の荷物の重さも忘れて、デパートのベビー売り場に行き、男の子かしら?女の子かしらと想像しながら、かわいらしいベビー服を手にしていた。
 
しかし、そんな気分も長くは続かなかった。
実家に泊まった翌日、体調に異常を感じて病院に行くと『切迫流産』と診断された。
入院の準備のための帰宅もゆるされず、診察室から病室に移った。
二十年以上も前のことで、ただ小さな命が育ってくれることを願い安静にするしかなかった。
結局、十日過ぎても小さな命の確認はできなかった。ただ、「小さな命よ。ごめんね」と泣き崩れた。
 
c0051044_18213864.jpg私の軽率な行動さえなければ、成人した男の子に育っているはずだった。

平成9年6月北国新聞掲載
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by violasan | 2005-02-05 18:23 | 徒然

家族を行きつけの小料理屋さんに

父は六十三歳の時、肺がんを患い死亡しました。
 
町の鋳物工場を経営していた父は、部屋の窓ガラスが黄変するほどのヘビースモーカーで、
癌が発見された時は、三ヶ月の命でした。それでも、治療と母の看病で一年間の延命の後帰らぬ旅に出ました。
 
父はライオンズクラブや中小企業主の仲間で、ゴルフやお酒の席に出かけ留守がちでした。
それでも、在宅の時は、母の手料理を美味しそうに食べ、鍋やすき焼きの時は自ら鍋をしきり
楽しそうだった。
 
普段は家事を手伝うことなくガスの使い方さえ知らない父で、母の外出を拒み、私が女子大付属高校から美術大学に進路を決めた時猛反対をし、頑固親父の見本のような父でした。
 
そんな父も、父の日は外食の日と決まって、自ら行き付けの小料理屋に家族を連れて行ってくれた。
珍しい料理を惜しみなく家族のために注文してくれた。父は得意げに笑みを浮かべていた。
 
家族揃って父の笑みに答えるかのように楽しく一時を過ごすことが、父へのプレゼントと信じていた。


平成9年6月15日北国新聞掲載
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by violasan | 2005-02-05 17:16 | 家族

転居通知

名古屋に住む母が住み慣れた家から引っ越すことになり、手伝いに行った。私が結婚す
るまで育った家でもある。
 
柱の一本一本が想い出を宿していた。伊勢湾台風の浸水後もあった。当時珍しかった二
階建ての我が家がご近所の避難場所となりお祭り騒ぎになったことが甦る。
 「この家は、後一週間ほどで取り壊されるのよ」
と寂しそうな母の言葉だった。思わず目がうるんだ。
 
主人の転勤で八回も引っ越した私にとっては、この家こそが想い出のたくさんつまった我が家だ。空家になった古家をしっかり焼き付けて金沢に帰った。
 
引越しの疲れもいえた頃、母から電話が入った。
 「昨日、家の前を通ったらショベルカーが容赦なく壊していた」
と淡々といった。
 
母は、去年七十歳にして独学で調理師の免許を獲得した。愛知県内の最高年齢の受験
者であり合格者ある。そんな母でも亡き父と二人三脚で築いた家を七十歳にして離れるこ
とになった心痛は想像もできない。
 
しばらくして、母から転居通知が届いた。どんな気持でこの葉書をポストにいれたのであ
ろうか?

平成9年6月12日北国新聞掲載
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by violasan | 2005-02-05 16:51